古いホテルを改装した珍しい造りの本丸、その三階の角部屋で男がひとり、窓辺に置かれたソファに深く沈み込むように座って本を読んでいた。窓から差し込む西日が彼の顔に影を落としている。長い時間そこに座っていたらしく、羽織にしわがよっている。サイドテーブルに置かれた湯呑は緑茶が半分ほど残ったまますっかり冷めていた。分厚く古めかしいハードカバーのページをめくる手つきはゆったりと落ち着いているものの、しおりの挟まれた前後を行ったり来たりしてあまり集中していないようだった。彼――歌仙兼定は一つため息をつき、音をたてて本を閉じた。カチ、コチと無機質な音が部屋にこだまする。デスクに置かれた時計に向かって、気が散るのはお前のせいだといわんばかりに恨めしげな視線を送った。
ふと何かに気づいたように、歌仙は耳をそばだてた。歌仙のいる部屋の方へ向かう足音が聞こえてくる。徐々に大きくなるそれは、カランコロンという下駄の音だった。歌仙はさっと手で髪をすき、胸元の花の位置を確認して、すまし顔でふたたび小説に目を落とした。
足音は部屋の前で止まり、ガチャガチャと何度かドアノブを回す音がしてドアが開く。足音の主、山伏国広が部屋に入ってくるのを歌仙は目の端で確認した。審神者から課せられた長期遠征から帰った彼は、最後に会ったときより修験者の装束がくたびれて汚れているようだった。山伏が電気のスイッチを入れると、壁際のシンプルなベッドと質素なデスク、小さめの本棚が室内灯にしろく照らされる。いつのまにか薄暗くなっていた室内に慣れていた歌仙は目をしばたたかせた。山伏はソファにどっかりと鎮座する歌仙に気づくと、困ったように眉を寄せた。歌仙は本から顔を上げ山伏を一瞥すると、おかえりと声をかけた。
「歌仙殿、拙僧の部屋で何をしているのであるか」
「そんなの、見ればわかるだろ」
不思議そうな声音の山伏に向けて本を掲げ、ひらひらと振って見せた。
「こんなところで本を読まなくても」
「何度かこの部屋に来て、日当たりのよさに目をつけてね。このソファも座り心地がよかったし、勝手ながら使わせてもらったよ」
「そうであったか」
「それに、きみを待っていた」
歌仙は本越しにこっそりと山伏の反応をうかがった。
「……」
「どうしたんだい」
山伏は歌仙に向かってカカカと笑うと、体の向きを変えてデスクへ歩いた。
「歌仙殿が座っているそれは、実は兄弟たちが拙僧に贈ってくれたものなのだ。己には過ぎた品だと感じていたが、使ってもらえてよかったのである! 拙僧には構わず、読書を続けてくだされ」
それだけ言うと山伏はデスクの下からキャスター付きの椅子を出して座り、ペン立てから主から支給されたボールペンを手に取り第三部隊の出陣記録を書き始めた。歌仙は山伏の言葉にぽかんと口をあけた。
(ほかに言うことがあるだろう!?)
歌仙は山伏をにらみつけた。しかし山伏は気づかずにぴしりと背を伸ばし、黙々とデスクに向かっている。
きりりとした眉、長いまつ毛、すっとした鼻筋。汗で流れたのか、目もとの紅があわくにじんでいる。普段は大きくあけて笑っている口も、今はきゅっと結ばれている。歌仙はため息を漏らした。
そうやって見とれていると、書いている途中でミスがあったのか、山伏が首をかしげた。彼の顔が宝冠で見えなくなる。歌仙は本を置いて立ち上がると、山伏にそっと近づき宝冠に手を伸ばした。すると、触れたとたんに山伏はボールペンを取り落として飛び上がった。山伏は椅子ごと歌仙から遠ざかり、壁に大きな音を立ててぶつかる。歌仙は驚いてそのままのポーズで固まった。
「山伏くん?」
「か、歌仙殿。突然何を」
「何って……」
壁際の山伏は宝冠を両手でおさえ、目を白黒させている。そのほおが上気してすこし赤くなっているのを見た歌仙は、ずいと山伏に歩み寄った。
「書き物をするのにその布が邪魔そうだったから、取ってあげようとしただけじゃないか。戦支度も解かずに落ち着くなんてできないだろう」
歌仙はしれっと言いはなち、手を山伏の宝冠の中に滑りこませた。
「やめてくだされ!」
その刹那、山伏に足を払われて歌仙の視界は反転した。部屋の床にあおむけに叩き付けられ、衝撃で目がくらむ。
「あ、か、歌仙殿、大丈夫か」
山伏がハッとした顔をして歌仙のもとにしゃがみ、手を差しのべる。歌仙はその手をつかむと憮然として体を起こした。
「いたたた。僕が文系じゃなかったら、受け身もとれずに怪我していたぞ」
「申し訳ない」
「きみ、ジャージのときは平気なくせに、隠していると恥ずかしくなるんだね?」
歌仙が目を細めて顔を近づけたので、山伏はまぶしそうにまばたきをした。
「いや、そうではなく」
「じゃあなんだい」
山伏は身じろぎした。
「久方ぶりに歌仙殿の顔を見たら、胸の辺りをつかまれたような心地がして……。ううむ、なんと言ったらよいか」
「……」
歌仙の手は、起き上がったときに山伏の手をつかんでそのままだった。
「歌仙殿? やはり、先ほど体を打ち付けたときにどこか怪我を」
「あの程度でするわけないだろう……」
心配そうにのぞき込む山伏と歌仙の視線がまっすぐにぶつかり、ふたりは見つめ合った。お互いの息づかいしか聞こえない。歌仙がつかんだ手の指をからめるように握りなおすと、山伏もぎゅっと握り返した。
「おーい山伏、さっきの音はなんだ? まさか倒れてんじゃねえよな」
部屋のドアをノックする音と外からの声に、ふたりはぱっと離れた。
「兼さん殿。いま開けるのである」
山伏はノックされつづけるドアにぎくしゃくと近づき、半分開けた。腕を組んで立っていた和泉守兼定がじろじろと山伏を見て、眉をひそめた。
「遠征がえりのままじゃねえか。きちっと体を清めておかねえと、錆びるぞ」
「騒いで迷惑をかけたようであるな。先に主殿への書類を用意していたら、少しよろけて転んでしまっただけである。室内で転ぶとは、気がゆるみきっている証! 後で主殿に山籠もりの許可をいただいてくるとしよう」
「いや、そこは休めよ」
「カッカッカ! ご忠告痛み入る。では、おとなしく休むとしよう」
「あー、それならいいんだけどよ。国広が、帰ってきてから兄弟の姿を見てない、何かあったんじゃないかってうるさくてな。切国のやつも悲壮感たっぷりにウロウロしてたし、あんまり心配かけんなよ」
じゃあな、と和泉守がきびすを返して階段へ消えるのを見届けてから、山伏はドアを閉めた。ふうと息を吐き出すと、デスクの影から這い出てくる歌仙に目をやった。
「歌仙殿、なぜ隠れた」
「きみこそ、ひどい嘘だったね」
「……」
「……」
微妙な沈黙がふたりの間に流れる。カチ、コチと置時計が存在を主張する。こほん、と歌仙が咳払いをした。
「あー、山伏くん、外はすっかり日が落ちて暗くなっているようだし、僕はそろそろおいとまするよ」
その言葉にほっとしたように、山伏は窓に近づきカーテンを閉めた。
「うむ。またここのソファを使いに来てくれたら歓迎するのである」
「じゃ、本を置かせてもらおうか。読みかけなんだ」
歌仙は山伏の返事を待たず、さっさとソファから本を拾い上げ小さな本棚にしまい込んだ。実用書ばかりの棚の中で小説のハードカバーは少し目立つ。
「これでよし。和泉守も言っていたけど、書類を出したらきちんと休むことだよ。それじゃ、失礼する」
歌仙はすまし顔でそう言うと、すたすたと山伏の部屋から出ていった。山伏は、歌仙の出ていったドアと自分の手を交互に見つめて一つため息をつくと、椅子を元に戻して書類作成を再開した。
一方の歌仙は自室に戻る道すがら、明日の計画を練っていた。
「さて、どうやって二人の朝餉の中にわさびを混ぜ込もうか」
妨害されて、より一層燃え上がる歌仙なのであった。

